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横浜地方裁判所 昭和55年(ワ)1460号 判決 1987年3月17日

原告

亡川瀬誠治訴訟承継人

川瀬和美

原告

亡川瀬誠治訴訟承継人

川瀬誠

右法定代理人親権者母

川瀬和美

右原告ら訴訟代理人弁護士

野村和造

宇野峰雪

柿内義明

鵜飼良昭

被告

神奈川県

右代表者知事

長洲一二

右訴訟代理人弁護士

山下卯吉

右指定代理人

田村年正

外四名

主文

1  被告は、原告らに対し、それぞれ四八七万〇五七九円及びうち四四二万〇五七九円に対する昭和五五年一月一七日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は、全部被告の負担とする。

4  この判決は、主文1に限り、仮に執行することができる。

ただし、被告が原告らに対し、それぞれ四〇〇万円あての担保を供するときは、当該原告による右仮執行を免れることができる。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告らに対し、それぞれ四九四万七六八四円及びうち四四四万七六八四円に対する昭和五五年一月一七日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  右1につき、仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は、原告らの負担とする。

3  被告敗訴の場合、担保を条件とする仮執行免脱の宣言

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  (当事者)

(一) 川瀬誠治(原告らの訴訟被承継人。以下「亡誠治」という。)は、寿日雇労働者組合(昭和五〇年五月一八日結成。以下「寿日労」という。)に加入する日雇労働者であつたが、昭和五九年八月二七日死亡し、その相続人は、妻である原告和美及び子である原告誠の両名である。

(二) 被告は、昭和五二年一月一六日午後四時三〇分頃横浜市中区寿町地区に出動した機動隊員の所属する神奈川県警察(以下「神奈川県警」という。)を設置する地方自治体である。

2  (責任原因)

(一) (神奈川県警機動隊員による違法行為)

寿日労は、昭和四八年の石油ショック以降不況のしわ寄せのため、仕事がなく、生活のできない日雇労働者に対する雇用の確保等の総合的対策を求め、昭和五二年一月一六日午後一時二〇分頃から午後三時一五分頃にかけて、横浜市中区寿町三丁目九番四号横浜市寿公園(以下現場の位置関係については、別紙見取図を参照)において約一〇〇名の参加を得て「日雇完全解放、仕事よこせ闘争勝利総決起集会」(亡誠治が神奈川県公安委員会に集会の許可申請をし、その許可を受けたもの)を開催した。右集会終了後、寿町内で集会参加者による無届出のデモ行進が行われたが、デモ行進が伊勢佐木警察署寿町派出所(以下「寿町派出所」という。)にさしかかつた際、川口五郎が同派出所に向かつて爆竹を投げつけたため、警察官によつて派出所内に連れ込まれそうになり、これを契機として日頃の警察に対する不満が表面化し、約一〇名程度の者が所携の旗竿をもつてその出入口戸を突くなどの抗議行動に出た後、寿町総合労働福祉会館構内において、デモ行進参加者による総括集会がもたれた。これに対し、伊勢佐木警察署(以下「伊勢佐木署」という。)の加藤浅雄警部らは、右総括集会に赴き、デモ行進参加者の一部をいきなり逮捕しようとしてデモ行進参加者の反発を受け、逮捕できなかつたことから、機動隊の増援を待つこととし、その頃寿町派出所近くのいこい荘角交差点付近に集結した群集の解散と右逮捕にあたろうとした。そこで、寿町地区に出動した神奈川県警所属の機動隊は、午後四時四〇分頃いこい荘角交差点に向かい行動を開始し、そのうち光陽荘方面から同交差点に向かつた機動隊員約二〇名が同交差点で警察側の動きを警戒していた亡誠治らに突如襲いかかり、数名の機動隊員は、同市中区寿町三丁目一二番九号第一双葉会館前路上において逃げ遅れ、転倒した亡誠治に対し、無抵抗であつたにもかかわらず、所携のジュラルミン製大盾をその頭部めがけて上から下へ打ちつけ、胸部・背部を足蹴りする等の執拗な暴行を加えた。その結果、亡誠治は、右側頭部開放性陥没骨折、脳挫傷、多発性助骨々折、外傷性気胸、背部挫傷等の傷害を負つた。その後亡誠治は、付近住民によつて救護されたが、これに対し、機動隊員は、負傷している亡誠治の引渡しを要求し、事件のもみ消しを図つた。

(二) (被告の責任)

右(一)に述べたとおり、神奈川県警所属の機動隊員が犯人の逮捕及びその援助と群集の解散指導という職務の執行にあたり無抵抗の亡誠治に対し、故意に執拗な暴行を加え、ひん死の重傷を負わせるという違法な行為をしたものであるから、被告は、国家賠償法一条一項に基づく損害賠償責任がある。

3  (損害関係)

(一) 亡誠治の受けた損害

(1) 付添看護費

亡誠治は、前述の傷害の治療ため、川崎市立川崎病院に昭和五二年一月一六日から同年三月七日まで入院し、その間一月一六日から同月三一日までの一六日間友人らによる付添看護を受けたが、その費用は、一日当たり二五〇〇円とみるのが相当であるので、四万円となる。

(2) 入院雑費

亡誠治が前述の入院期間(五一日間)中に要した雑費は、一日当たり六〇〇円を下らないので、三万〇六〇〇円となる。

(3) 休業損害

亡誠治は、当時日雇労働に従事する二五歳の者であつたが、川崎病院を退院後も昭和五三年一一月一五日まで通院を続け、その間前述の傷害を受けたことにより、昭和五二年四月一〇日までは全く稼働できる状態でなく、それ以後も全身の倦怠感・消耗感等のため同年九月末日まで肉体労働がでない状態にあり、このため六二二日間就労できなかつたので、その事故前の平均収入は明らかでないけれども、少なくとも昭和五二年賃金センサス第一巻第一表産業計、企業規模計、小学・新中卒、二五歳ないし二九歳による男子労働者の平均賃金を基礎として算出した三八一万〇五五九円につき損害を受けたものとみるのが相当である。

(4) 後遺障害による逸失利益

亡誠治は、前述の傷害を受けたことにより、てんかん発作の起きる危険があるため、少なくとも受傷後三年間の経過観察期間中は、自動車の運転・高所作業等を避けなければならず、このため就労を制約されることとなつたので(日雇労働という仕事の性質上、就労の機会自体が少なくなる。)、昭和五三年一〇月一日から昭和五五年一月一六日までの間につき、前述の平均賃金を基礎として自動車損害賠償責任保険後遺障害別等級表九級一〇号に準じ三五パーセントの労働能力を喪失したものとして算出した一〇一万四二〇九円につき損害を受けたものとみるのが相当である。

(5) 慰謝料

亡誠治が神奈川県警所属機動隊員から執拗な暴行を受け、とりわけ頭部にジュラルミン製盾を打ちつけられるという殺意さえ認められる残虐な行為によつて頭蓋骨陥没骨折、脳挫傷という生命にかかわる傷害を受け、向後右傷害に起因するてんかん発作の恐怖におびえる生活を送らなければならなかつたこと等を考慮するならば、亡誠治の精神的苦痛は極めて大きいといつてよく、その慰謝料額は、四〇〇万円を下らない。

(二) 原告らによる相続

原告らは、亡誠治の相続人として右(一)の損害賠償債権合計八八九万五三六八円につき、それぞれ法定相続分たる二分の一にあたる四四四万七六八四円あて相続した。

(三) 弁護士費用

亡誠治及び原告らは、本訴の提起追行を弁護士に委任し、横浜弁護士会報酬規定標準額による報酬の支払を約したが、その費用については、各原告につき五〇万円あてが本件違法行為と相当因果関係のある損害である。

4  (結論)

よつて、原告らは、被告に対し、それぞれ損害賠償金四九四万七六八四円及びうち弁護士費用を除く損害賠償金四四四万七六八四円に対する損害発生後である昭和五五年一月一七日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うことを求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1(一)のうち亡誠治が日雇労働者であつたことは不知、その余の事実を認め、同(二)の事実を認める。

2  同2(一)のうち寿日労が昭和五二年一月一六日午後一時二〇分頃から午後三時一五分頃にかけて横浜市中区寿町三丁目九番四号横浜市寿公園において「日雇完全解放、仕事よこせ闘争勝利総決起集会」を開催したこと、右集会終了後、寿町内で無届出のデモ行進が行われたが、デモ行進が寿町派出所にさしかかつた際、川口五郎が爆竹を投げつけ、デモ行進参加者の一部が所携の旗竿をもつて派出所の出入口戸を突くなどの行為をしたこと、その後、寿町総合労働福祉会館構内で、デモ行進参加者によつて総括集会がもたれたこと、伊勢佐木署の加藤浅雄警部らが右集会に犯人の捜査及び確認のため赴いたこと、同警部が機動隊の増援を待つて、犯人の検挙及びいこい荘角交差点付近に集結した群集を解散させようとしたこと、寿町地区に出動した神奈川県警所属の機動隊員がいこい荘角交差点に向かい行動を開始した際、ジュラルミン製の盾を携行していたこと、亡誠治が横浜市中区寿町三丁目一二番九号第一双葉会館前の路上に負傷して倒れていたこと、をいずれも認め、亡誠治の受けた傷害の内容は不知、その余の事実をすべて否認し、同(二)を争う。

寿日労は、同日午後一時二〇分頃から午後三時一五分頃まで寿公園において、前述の総決起集会を寿日労関係者約三〇名、一般労働者約二〇名合計約五〇名の参加を得て開催した。右集会終了後、右集会参加者を含む総勢約七〇名が寿公園周辺で無届出のデモ行進を行つたが、右デモ行進が同日午後三時三五分頃、寿町派出所にさしかかつた際、川口五郎が同派出所前で警戒中の川島警部補に向かつて爆竹を投げつけ、デモ参加者のうち竹製又はジュラルミン製の旗竿をもつた一一、二名の者が右川口の指示で派出所出入口戸を旗竿をもつて激しく突いたり、たたいたりしてこれを損壊し、派出所内にいた警備中の加藤巡査に全治二週間を要する左拇指捻挫の傷害を負わせた。デモ行進参加者は、約五分後に寿町総合労働福祉会館構内に引き揚げ、同所において午後三時四五分頃から、総括集会を開いた。伊勢佐木署では、かかる事態の発生の報告を受け、加藤警部らを寿町派出所に派遣した。そして、同警部が右の公務執行妨害、傷害、暴力行為等処罰に関する法律違反被疑事件の犯人の捜査及び確認のため、右総括集会場に赴いたところ、参加者の一部の者は、同警部らに対し旗竿で突く、殴る、足蹴りするなどの暴行を加え、同警部らに対し全治一週間を要する顔面打撲、挫創、左下腿部打撲傷等の傷害を負わせた。更に、その後、右総括集会参加者は、午後四時四分頃からいこい荘角交差点と横浜市寿生活館付近に分散して集結し、このうちいこい荘角交差点付近に蝟集した寿日労組合員を含む約五〇名の群集が近くにある寿町派出所前の路上で警戒中の警察官に対し、石、空びん等を投げつけ、挑発的言動を行つた。このため、伊勢佐木署では、所属警察官の増援を行うとともに、県警察本部に機動隊員の派遣を要請し、出動した伊勢佐木署部隊総勢二二名(四個分隊)を寿町派出所前と森本ビル前に、機動隊四個小隊総勢七五名のうち、大堂小隊一五名を光陽荘角交差点に、永井小隊一八名を熱海荘角交差点に、小山小隊一八名と村尾小隊二四名を松影新館角交差点にそれぞれ配置した。そして、午後四時三五分頃、寿町派出所前に配置した伊勢佐木署部隊からいこい荘角交差点に向かい行動を開始し、同部隊が二列横隊の隊形をとつて駆け足で前進したところ、同交差点に蝟集していた約七〇名の群集の一部は寿生活館方向に後退した。しかし、伊勢佐木署部隊が同交差点を左折し、生活館方向に向かつたとき、群集に混つていた十数名の組合員は、旗竿等を振り上げ、たたく、突くなどして激しく抵抗し、前進を阻んだため、伊勢佐木署部隊において、大盾をもつて右攻撃を排除し、その結果群集が寿生活館・寿公園内等に移動した。機動隊は、伊勢佐木署部隊の検挙活動を支援しつつ、路上の群集の排除を行つたので、残る群集もほとんど寿公園内等に入つた。その後、午後四時四二分頃、寿生活館内で犯人の捜索を終えて表に出た川島警部補に対し、同所付近にいた労働者風の者から第一双葉会館前に負傷者がいる旨の申出があり、同警部補が同所に赴いたところ、十数名の労働者風の者に囲まれたなかにうつ伏せに倒れた負傷者(後に、亡誠治と判明)がいたので、同警部補が救急車の出動を求め、到着した救急車に収容しようとしたところ、参集した群集によつて救護活動を妨害されたため救護するに至らなかつた。

3  同3(一)及び(三)の事実は、いずれも不知、同(二)につき、相続の対象を争い、その余の事実は認める。

第三  証拠<省略>

理由

一(当事者)

請求の原因1(一)の事実中、亡誠治が日雇労働者であつたことは、亡誠治本人尋問の結果によりこれを認めることができ、その余の事実及び同(二)の事実は、、いずれも当事者間に争いがない。

二(責任原因)

1  まず神奈川県警所属機動隊員による違法行為につき、検討する。

(一)  <証拠>によると、以下の事実が認められ、<証拠>中右認定に反する部分は措信できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(1) 寿日労は、横浜市中区寿町地区の日雇労働者で組織する労働組合であるが、亡誠治が申請者となり、神奈川県公安委員会の許可を得て、日雇労働者の雇用確保等の総合対策の実施要求を掲げ、昭和五二年一月一六日午後一時二〇分頃から午後三時一五分頃までの間、横浜市中区寿町三丁目九番四号横浜市寿公園において「日雇完全解放、仕事よこせ闘争勝利総決起集会」を開催し、これに亡誠治を含む七、八〇名の日雇労働者が参加した。

(2) そして、右集会終了後、参加者は、寿公園を出発し、寿町内を一巡して寿町派出所前を経由し再び寿公園に戻る経路で無届出のデモ行進を行い、亡誠治も、これに参加し、デモ行進の最後尾にあつてハンドマイクを使用し、シュプレヒコールの音頭をとつていた。

(3) ところが、右デモ行進が午後三時三〇分頃同市中区寿町三丁目一〇番二号寿町派出所前にさしかかつた際、参加者の一人川口五郎が同派出所に向かつて爆竹を投げつけ、更に十数名が数分間にわたり長さ三メートル程度のジュラルミン製又は竹製の旗竿を構えて同派出所の出入口戸に突つ込み、あるいはこれに体当たりするなどして気勢をあげ、右出入口戸を内側に湾曲させる等これを損壊した。

(4) このような事態の発生に対し、伊勢佐木署警備課長加藤浅雄警部は、寿町派出所に出向いて、川口五郎らによつて右派出所襲撃が行われたことを聞き、「やられ放しで黙つているな。」と部下に指示し、同人を逮捕すべく私服警察官数名を連れ、デモ行進参加者が、寿町総合労働福祉会館構内で総括集会を行つていたところへ赴き、その場にかねて指名手配中の山田一郎のいるのを知つて逮捕しようとしたが、川口五郎らの抵抗にあい、逮捕できないままいつたん寿町派出所に引き掲げた。

(5) 他方、デモ行進に参加した日雇労働者を含む五〇名くらいの群集が、その頃には、寿町派出所から南西約五〇メートルの地点にあるいこい荘角交差点に参集し、以後約一時間にわたり同所に滞留して警察側の動きを見張つた。亡誠治も、長さ三・五〇メートル、直径六センチメートルくらいの竹製の旗竿(旗は縦一・五メートル、横二・〇メートルである。)を所持し、他の一〇名くらいの旗竿をもつた者とともに、見張りに参加した。同交差点付近に集結した群集の中には、寿町派出所前で警戒にあたつていた伊勢佐木署の制服警察官に対し、散発的に石やびん類を投てきする者もあつた。

(6) そこで、伊勢佐木署では、応援の署員を寿町派出所に派遣するとともに神奈川県警本部に機動隊の派遣を要請した。現場に到着した伊勢佐木署の応援署員及び機動隊は、加藤警部の指揮を受け、午後四時三〇分頃までにいこい荘角交差点付近に集結していた群集五〇名くらいを包囲する形で配置を完了した。伊勢佐木署部隊総勢二十数名は、寿町派出所北東角交差点付近と同交差点から南東に下つた森本ビル角交差点付近に分かれて配置され、また、機動隊総勢七十数名のうち大堂小隊(一五名くらい)がいこい荘角交差点北西にある光陽荘角交差点付近に、永井小隊(一八名くらい)がいこい荘角交差点の南西にある熱海荘角交差点付近に、小山・村尾の各小隊(四二名くらい)がいこい荘角交差点から南東にある松影新館角交差点付近にそれぞれ分かれて配置されたが、いこい荘角交差点と松影新館角交差点との間に位置する寿公園角交差点からみて南西にある寿町総合労働福祉会館角交差点には、配置されなかつた。そして、伊勢佐木署部隊は、寿町派出所を襲撃した川口五郎及びその逮捕行為を妨害した佐久間茂夫や室屋正明らを逮捕する任務をもつて、機動隊は、これを支援するとともにいこい荘角交差点付近に参集していた群集を解散させる任務をもつて、それぞれが亡誠治らのいたいこい荘角交差点に向かい、一斉に駆け足で前進を開始した。伊勢佐木署部隊は、制帽(一部ヘルメット)・制服を着用し、けん銃・警棒のほか大部分の者がジュラルミン製大盾を携行しており、機動隊は、防石面付ヘルメット・出動服を着用し、警棒とジュラルミン製大盾(同大盾については、小隊長を除く。)を携行していた。

(7) そして、まず、伊勢佐木署部隊がいこい荘角交差点を左折し、ついで永井小隊(右折)、大堂小隊(直通)の順序で相接して、それぞれが二列横隊の阻止隊形を組み、同交差点を通過して寿生活館・寿公園方面に向かい、前進したのに伴い、同交差点付近に参集していた群衆は、寿生活館・寿公園方向に向かつて逃げ、警察部隊は、これを追跡したのであるが、そのうち伊勢佐木署部隊及び機動隊の一部が寿生活館内に逃げ込んだとみられた川口五郎捜索のため、寿生活館内に入り、残る警察部隊と反対方向の松影新館角交差点付近から前進してきた小山、村尾の各小隊が寿公園内に入り、佐久間茂夫らの逮捕と群集の規制にあたつた。寿公園内では、群集から機動隊に対しびん類を投てきするなどの抵抗があり、また、機動隊員と群衆との間で大盾をひつぱり合うといつた対立もあり、混乱状態にあつた。

(8) その頃、いこい荘角交差点から寿生活館・寿公園方向に向かい約一五メートル進んだ第一双葉会館前の路上には、亡誠治が頭部を寿生活館・寿公園方向に、足先をいこい荘角交差点方向に向け、頭部から血を流しながら意識を失い、身体の左側を下にして倒れていた。

(二)  亡誠治の右受傷の部位・程度等傷害の詳細は、後に(3)で認定のとおりである。そこで、右受傷原因について、検討を進める。

(1) まず、亡誠治は、その本人尋問において、受傷の経緯につき、いこい荘角交差点で旗竿を持ち、他の四〇名くらいの群集と警察側の動きを見張つていたところ、寿町派出所方面からは伊勢佐木署部隊が、また、光陽荘と熱海荘の二方面からは機動隊がいずれも警棒、大盾を携行して同交差点に向かい突進してきたので、他の群集とともに寿生活館・寿公園方向に二、三〇メートル感覚の距離を逃げた、しかし、逃げ切れないと思い、後ろを振り返つたところ、機動隊員が五、六メートルの距離まで迫つて来ていたので、旗竿を水平に構えて道を塞ごうとしたが、腰を入れて構えるまでもなくなぎ倒されてしまい、その後は、気を失つていたようであり、路上に倒れているところを他に引きずられて連れて行かれたことのほかは記憶にない、どのようにしてなぎ倒されたのかもわからない、後になつて他の者から聞いて第一双葉会館前の路上に負傷して倒れていたことがわかつた旨を供述するにとどまり、このため、同供述によつては、亡誠治がいかなる原因で頭部等に重傷を負つたのか、判然としない。

(2) しかし、証人室屋町子の証言によると、同証人は、当時保育担当のため、寿生活館(同館の三階に保育所があつた。)を訪れていたが、周辺の異様な雰囲気を感じ、表に出て同建物前の路上にいたところ、いこい荘角交差点及び反対の松影新館角交差点の両方向から喚声が聞こえ、労働者の一人が寿生活館に逃げ込んだ、同証人は、びつくりし、同館三階にいる子供らのことを案じ、三階に行つたところ、しばらくして制服警察官や機動隊員が入つてきて内部の捜索を行い、出て行つた、その後、同証人が三階廊下の道路に面した窓から身を乗り出し、左方十数メートル離れた第一双葉会館前の路上を見たとき、数名の機動隊員が何かを取り囲み、そのうちの後ろ向きの一名が持つていた大盾を上から下に数回振り下ろすような動作をしているのを目撃し(更には、足を使つている感じも受けたという。)だれかが危害を加えられているような気配を感じたので、寿生活館を出てその場に駆けつけた、同証人が近寄つたところ、第一双葉会館前の路上に怪我をした人が頭部を寿生活館・寿公園方向に、足先をいこい荘角交差点方向に向け、道路中心線より若干第一双葉会館寄りの地点(同壁面より二メートルくらい離れた地点)に、顔を同館側に向けてうつ伏せに倒れ、頭部の下付近の路面には血液が流れていた、そして、その周囲には大盾を所持していた数名の機動隊員がおり、しばらくしたとき、労働者も数名いるのに気付いたが、機動隊員が倒れていた者を連れていこうとしていたので、同証人は、倒れている者のところへ近づき、もう一人の女性とともにその者におおいかぶさるようにしてこれに抵抗するとともに、機動隊員に対し、おまえたちが怪我をさせたのではないかと抗議した、そのうち、機動隊員が倒れた者を連れて行くのを中止し、そのそばから離れたが、その時点で、はじめてその者が顔見知りの亡誠治であることに気付いた、亡誠治は、頭部を受傷し、出血量も多く、意識がない状態であつた、というのであり、同証人は、機動隊員による大盾振下ろしの行為が亡誠治の身体に加え及ぶところを直接目撃しているわけではないが、先に認定した警察部隊の行動開始から亡誠治の受傷に至るまでの経過の中で、右の証言内容を前提として、亡誠治の受傷原因につき考えるならば、亡誠治は、いこい荘角交差点から逃げる途中、何らかの原因で路上に転倒したところ、機動隊員が振り下ろした大盾によつて頭部に受傷したものと推認するのが相当である。

そこで、「右室屋証言の信ぴよう性について見てみるに、その証言内容自体に格別不自然・不合理な点は見受けられず、むしろ寿生活館三階の道路に面した側の窓から第一双葉会館前の路上を見た状況等には、真実目撃したものでなければ供述し難いとみられるものが含まれることに加え(弁論の全趣旨により成立を認める甲第六号証の内容に徴し、同証人において寿生活館三階廊下の道路に面した窓から、第一双葉会館前の路上に倒れていた亡誠治を取り囲んでいる機動隊員を視認することは可能であつたと認められる。)、右機動隊員携行の大盾につき、後述する亡誠治の右側頭部の創傷に対する成傷器としての符合状況、更には事件を目撃したとする金平常彦や清水清行の法廷外における供述内容(弁論の全趣旨により亡誠治ほか一名と金平常彦との対話を録音した録音テープであると認める甲第七号証の一及びその反訳であると認める同号証の二によると、第一双葉会館の管理人である金平常彦は、亡誠治が同建物前の路上で倒れたところを三人の機動隊員によつて大盾で頭部を殴られ、受傷するのを目撃した旨を、昭和五二年五月二日亡誠治らに語つており、<証拠>によると、第二双葉会館の居住者である清水清行も、同年七月三一日、亡誠治が事件の目撃状況を尋ねたのに対し、同建物三階窓からみていると、道路を走つてきた亡誠治が転倒したところ、機動隊員がやつてきて取り囲み大盾でボカボカやつていた旨を語つており、このように亡誠治と特別の利害関係があるとも見受けられない両名が、法廷外とはいえ、結論的に室屋証言と符合する供述をしているのである。)に徴するならば、右証人の夫である室屋正明が、亡誠治と同じ寿日労の組合員であり、既述の寿町派出所襲撃事件に関与して処罰されていることやその後寿日労の執行委員長となり原告らの本訴訟を支援しているとみられること(以上の点は、右室屋証言及び弁論の全趣旨によりこれを認める。)を考慮に入れても、右室屋証言は、十分に措信しうるものと認めてよい。」

(3)  ところで、<証拠>によると、亡誠治は、右側頭部開放性陥没骨折、脳挫傷、背部擦過傷、右第六・第七肋骨々折、外傷性右胸気胸等の傷害を受けており(二箇月近くの入院治療を要する重傷であつた。)、そのうち、右側頭部の外傷は、右耳介上方にやや斜め横の直線的な形状をもち、頭蓋骨陥没骨折を伴う長さ約六・五ないし七センチメートル(最長)、幅一・五センチメートル(最大)、深さ約一・五センチメートル(最深)の挫創であり、成傷器としては幅の狭い、長寸の鋭的形態をもつ鈍的物体が一回強く作用した結果生じたものとみられること(なお、その創傷面に泥等の異物が付着していた形跡はなかつた。)、また、背部の肩胛骨下付近の外傷は、二個あつて、右側頭部の場合とは異なる方向から外力が作用した結果生じたものとみられる打撲・擦過傷であり、その際右第六・第七肋骨を骨折し、外傷性右胸気胸を惹き起こしたものとみられることが認められる。

ところで、<証拠>によると、伊勢佐木署部隊員及び機動隊員が当時携行していた大盾は、縦一一一センチメートル、横五四センチメートルの長方形で、横が外側にゆるやかに湾曲し、内面に二個の把手がもうけられているジュラルミン製防禦盾であつて、その厚さは、塩化ビニール製緩衝体(その幅員二センチメートル)で被覆されている辺縁部で〇・九センチメートルあるが、本体部分ではこれより薄くなつており、全体の重量は五・五キログラムあることが認められるから、亡誠治の右側頭部の外傷については、その形状殊に幅約一・五センチメートルに比し深さも約一・五センチメートルある割に深い創傷であつて、頭蓋骨陥没骨折を伴つていることからみて、右のとおり厚くても辺縁部で〇・九センチメートルにすぎないジュラルミン製大盾は、その形状・材質等からして成傷器たるの可能性を十分に有するものといわなければならない。ところで、亡誠治やいこい荘角交差点にいたデモ参加者が所持していた旗竿は、その太さ等の形状からみて、右頭部外傷に対する成傷器の可能性が乏しく、また、前掲甲第六号証によると、亡誠治が倒れていた第一双葉会館前の道路端には、四ないし九センチメートルの段差をもつ縁石のあることが認められるけれども、ほぼ直角状をなす右縁石の角部分によつては(幅一・五センチメートルの創傷を生じさせたとしても、その深さが一・五センチメートルに達する筈がなく)、亡誠治の頭部外傷のごとき創傷は生じ難いというべく(亡誠治が第一双葉会館の壁面より二メートルくらい離れて倒れていた旨の前示室屋証言によつても、同じ結論となろう。)、更に、現場では、前叙のごとく群集によつて石・びん類の投てきがなされているが、これらが頭部に命中した場合は、通常、線状骨折になるとみられるのに(この点は、証人松井の証言により認める。)、亡誠治の頭部外傷は陥没骨折なのであるから、右投石等も右受傷の原因ではないといつてよい。

(4) そして、<証拠>によれば、前掲室屋証言より更に踏み込み、右証人黒田は、当日、寿町派出所で既述の騒動があり、寿生活館内の保育所に預けていた子のことが心配になつたので、同館にかけつけたが、警察官による規制で内部に入れなかつたため、同証人は、寿公園内の第一双葉会館に近い入口付近にいて模様を眺めていたところ、いこい荘角交差点の方から走つて逃げてきた群集の一人が転倒し、これに対し、数名の機動隊員がその者を取り囲んで大盾を上下に動かす動作をしているのを目撃した、その場に駆け寄つたところ、面識のある亡誠治が頭部から出血して倒れていたので、同証人が救急車を呼ぶように機動隊員に求めたが、機動隊員は、亡誠治を連れ去ろうとしたため、女性が亡誠治の上におおいかぶさつてこれを阻止しようとした旨供述しているところ、その供述中には、先に認定したいこい荘角交差点における群集の参集状況や伊勢佐木署部隊及び機動隊の行動等とそごするものがあり、亡誠治が転倒した状況についても、亡誠治の供述とは異なるけれども、当時、現場は、前叙のとおり警察部隊による群集規制がなされ、混乱した状況にあつたとみられることを考慮するならば、右のようなそごがあるからといつて、同証人の供述が全く信ぴよう性に乏しいものと断ずることはできない。

(5)  これまでに検討したところを総合するならば、亡誠治は、転倒しているところを機動隊員によつて大盾の下端を打ちつけられたため、右側頭部に開放性陥没骨折、脳挫傷の傷害を受けたものであると認めるのが相当であるが、亡誠治の背部打撲擦過傷、右第六・第七肋骨々折、外傷性右胸気胸の傷害については、転倒後、機動隊員から有形力の行使を受けて生じたものではないかとの疑いがあるとはいえ、受傷の時期と成傷具及び加害行為の主体と態様がつまびらかでなく、他にこれを明らかにする証拠もないので、右受傷の原因が機動隊員の行為であると断定するわけにはいかない。

(6) もつとも、証人加藤の証言によると、同証人は、伊勢佐木署部隊を指揮し、同部隊の後方にあつて一緒にいこい荘角交差点に駆け足で向かい、同交差点を左折したのち、寿生活館に入り、川口五郎の捜索にあたつた、同証人が同交差点を左折するとき、熱海荘方向から機動隊が接近していたし、寿生活館には、同証人が最初に入り、その後機動隊員も入つているが、同証人が同館に行くまでは、特に群集側からの妨害もなく、機動隊は見かけなかつた、同証人は、寿生活館から表に出たところ川島警部補の報告で第一双葉会館前の路上に、後に亡誠治と判明した者が負傷して倒れているのを知つた、というのであり、証人川島の証言によると、同証人も、伊勢佐木署部隊の一員として加藤警部と行動をともにし、寿生活館から表に出た後、労働者二名から第一双葉会館前の路上に負傷者が倒れていることを知らされたが、その者は頭部に負傷していたので、これを同警部に報告した、いこい荘角交差点から寿生活館までは、抵抗なく前進できたのであつて、いこい荘角交差点を左折するとき熱海荘方向から機動隊が接近しており、寿生活館に入るまでに機動隊に追い抜かれたように思うが、いこい荘角交差点から寿生活館に入るまでの間に警察と群集とが接触するのは現認していない、というのであり、更に、大堂小隊長であつた証人大堂の証言によると、大堂小隊は、伊勢佐木署部隊、永井小隊に続いて前進を開始し、いこい荘角交差点に向かい、各部隊が約一〇メートルの間隔を置いて同交差点を通過し、更に寿生活館・寿公園まで駆け足で前進したが、群集との接触はなく、その間、路上に人が倒れていたということもなかつた、同証人は、犯人捜索のため隊員の半分を連れて寿生活館に入り、その後表に出て周辺の群集を整理していたとき、第一双葉会館前の路上に負傷者が倒れているのを知つた、近くには、七、八人の男女がいたが、機動隊員はいなかつた、残る隊員は寿公園に入つたが、混乱はなかつたように思う、というのであり、これらの証人は、いずれも伊勢佐木署部隊や機動隊が行動を開始した後、いこい荘角交差点を経て、寿生活館・寿公園に至るまでの間に、いこい荘角交差点に集結していた群集と警察部隊との間に接触や混乱があつたことを否定しているけれども、警察部隊が行動を開始し、いこい荘角交差点から寿生活館・寿公園方向に向かう際、群集から抵抗があつたことは、被告の自陳するところであり(事実欄第二の二2参照)、これと反する右各供述には、直ちに首肯し難いものがあるのみならず、前示証人室屋及び黒田両名の供述((2)・(4)参照)によれば、亡誠治に対する前叙機動隊員の暴行があつたのは、警察部隊による寿生活館内における犯人捜索開始後であると認められるから、右証人加藤・川島及び大堂の各証言は、前記(5)の認定を左右するものではない。

2  そうすると、機動隊員が寿町派出所襲撃事件に関連し、犯人の検挙活動を支援するとともに群集の解散措置をとるに当たり、必要かつ相当な限度を超えて実力を行使することは、もとより適法な職務執行ということはできないのであつて、先に認定した被告の公務員である機動隊員による亡誠治に対する加害行為は、違法であることを免れず、その行為の態様からみて、少なくとも過失の存することは明らかであるから、被告は、国家賠償法一条一項に基づき、亡誠治が被つた損害につき賠償責任があるというべきである。

三(損害関係)

1  亡誠治の受けた損害

(一)  付添看護費

<証拠>によると、亡誠治は、前述の傷害の治療のため、川崎市立川崎病院に昭和五二年一月一六日から同年三月七日まで五一日間入院したことが認められるが、その間、原告ら主張の付添看護を受けたことを認めるに足る証拠はない。

(二)  入院雑費

亡誠治は、前認定のとおり五一日間入院しているので、その間に要した雑費として一日当たり六〇〇円で計算した三万〇六〇〇円の損害を受けたものと認めるのが相当である

(三)  休業損害

<証拠>によると、亡誠治は、昭和二七年七月一九日出生の高卒男子であり、以前から日雇労働者として稼働していたが、前認定のとおり傷害を受けたため、昭和五二年一月一六日から、同年三月七日まで入院治療を受け、その後も翌五三年一一月一五日までの間四五回にわたり通院治療を受けたところ(亡誠治は、医師から受傷後三年間は治療を継続するように指示されていたのに、自らの意思でこれを打ち切つた。)退院時までに、右側頭部開放性陥没骨折右第六・第七肋骨々折、外傷性右胸気胸等の傷害は治癒したものの、同五三年夏頃までは、全身倦怠感が続き、稼働できなかつたことが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。ところで、亡誠治が当時日雇労働によつて得ていた賃金額を明らかにする証拠はないけれども、右に認定したところに従うと、原告ら主張のごとく昭和五二年賃金センサス第一巻第一表産業計、企業規模計、小学・新中卒、二五歳から二九歳までの男子労働者の平均賃金年額二二三万六一〇〇円を基礎として、昭和五二年一月一六日から同五三年九月末日までの六二二日分につき算出した三八一万〇五五九円をもつて、亡誠治の休業損害とみるのが相当である。

(四)  後遺障害による逸失利益

<証拠>によると、亡誠治は、脳挫傷に起因する脳軟化の状態が残り、脳波に異常がみられ、てんかん発作の危険があるとされたため、少なくとも受傷後三年間は高所作業や自動車運転等を回避する必要があつたことが認められるが、本件全証拠によるも、亡誠治がその結果現実にどのように就労の機会を制約され、その結果どのような減収になつたのかが明らかでないから、亡誠治の後遺障害による逸失利益の額を算定することができない。それゆえ、右の事情は、後に述べる慰謝料額の算定において斟酌するにとどめる。

(五)  慰謝料

既に認定した加害行為の態様、受傷の程度・治療状況、後遺症(証人松井の証言によると、現に亡誠治は、昭和五八年八月七日にてんかん発作のあつたことが認められる。)のほか、本件の審理に現われた諸般の事情を斟酌するならば、亡誠治が受けたと認められる精神的苦痛を慰謝すべき金額としては、五〇〇万円が相当である。

2  原告らによる相続

亡誠治が昭和五九年八月二七日死亡し、原告らが亡誠治の妻又は子として、法定相続分による相続人であることは、当事者間に争いがないから、亡誠治の右1の損害賠償金債権の合計八八四万一一五九円につき、原告らは、各自二分の一にあたる四四二万〇五七九円あて相続したものである。

3  弁護士費用

亡誠治が弁護士に本訴の提起追行を委任したが、本訴の係属中死亡したことにより、原告らがその相続人として訴訟承継をしたことは、記録上明らかであり、本件事案の内容・性質、審理経過及び認容額等諸般の事情を考慮すると、弁護士費用としては、原告らにつき各自四五万円あて認めるのが相当である。

四(結論)

よつて、原告らの請求は、被告に対し、それぞれ右三2・3の損害賠償金の合計四八七万〇五七九円及びうち同3の弁護士費用を除く同2の損害賠償金四四二万〇五七九円に対する右損害発生後である昭和五五年一月一七日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うことを求める限度で正当として認容し、その余につきいずれも失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九二条但書、八九条を、仮執行の宣言及び仮執行免脱の宣言につき同法一九六条一項・三項を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官佐藤邦夫 裁判官村上正敏 裁判官渡邉温は、転官につき署名捺印することができない。裁判長裁判官佐藤邦夫)

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